宇宙まで行かないとわからない
宮沢賢治の詩 『春と修羅・序』の冒頭はこんな風に始まる。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
単純な原理の複合体
宇宙的に見れば、物事は単純な原理の複合体になっている。それを包括的にではなく局所的に見てしまうと、途端に意味がわからなくなる。科学は物事を解明し続けることに夢中だが、その説明はお世辞にも綺麗とは言い難い。様々な専門用語を作り出し、理路整然とは言い難い理論を展開する。
科学論文は、詩人の詩のように万人が楽しめる文学にはなっていない。好奇心と探究心が旺盛な少年少女が宇宙の真理を求めてnatureを読んでも、退屈で「つまらない」読後感しか得られない。科学から編み出される解決法はいつも近視眼的で対症療法的。多くの人々にとって、科学は理解できないから退屈なのではなく、理を表していないから退屈に感じるのである。
宇宙のエネルギー循環を捉える
物事の働きは宇宙のエネルギー循環で説明できる。エネルギーは幾何学的なものであり、自然にパターンとして現れている。時間を含む幾何学パター ンとして様々な現象を捉えれば、説明は簡潔で綺麗なものになる。真に理を論じたもの、つまり例外のない理論になる。例外が見つかる理論は根本的に宇宙の捉え方を誤っている。
その点、宮沢賢治は宇宙のエネルギー循環を捉えている。宇宙を感じる心がなければ、この詩の意味は全く理解できない。
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
宇宙まで行かないとわからない
地球の色や形は、宇宙まで行かないとわからない。宇宙の中の出来事の真相を知るには、宇宙まで行く必要がある。自分の立場に固執している限り、あるいは、人間社会の常識に固執している限り、宇宙の姿は見えてこない。宇宙と一体化して物事を捉えるようなやり方でしか、本質に触れることはできないのである。
その意味で、「悟り」とは、宇宙と一体化することである。これは比喩表現ではない。『春と修羅・序』にも書かれてある。
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのお のおののなかのすべてですから)
宇宙を探索するための心の働き
ヒトは宇宙を自分の中に入れることができる特殊能力を持っている。夜空を見上げて星々の点をつないで星座を見出すように、自分の身体感覚を通して経験した「特殊なパターン」から共通項を取り出し、「一般的な構造」を発見することができる。具体的な経験を抽象化して原理を発見する。私たちはそれを心で行う。
頭の働きを最小化し、心の働きを最大化するとき、宇宙で何が起きているかが見えるようになる。星も生物と同じように生まれては死ぬこと、星の一生で軽い元素から重い元素が生成されること、超新星爆発によって内部に蓄積された重い元素が宇宙に拡散されること、それによって銀河の元素分布が変化すること。
そうした宇宙的な物事の見方を地球表面上での生活に応用すれば、技術は宇宙的に進化し、誰もが現在よりも遥かに快適に暮らせるようになる。それは誰かの大きな犠牲の上に成り立つ小さな快適さではない。全生命が感じられる豊かさである。それこそが真の富である。