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遊びの博物館計画について

· 約8分
Yachiko Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ
Hiroki Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ

ハードとソフトという考え方があります。例を挙げれば、ゲーム機とゲームソフトの関係がわかりやすいですが、スマートフォンとアプリの関係、催事場と催しの関係がハードとソフトの関係です。

ハードに価値をもたらすソフト

多くの人は目に見えて存在するハードのスペックにばかり注目しがちですが、ハードの価値を決定しているのはソフトである、と私たちは考えています。どんなに時代遅れで低スペックなハードでも、魅力的なキラーソフトがあれば、多くの人は喜んでそのハードを使う1でしょう。その意味で、ソフトはハードに命を吹き込むような存在といえるかもしれません。

また、魅力的なキラーソフトとはハードの特性を十分に活かして新しい体験を可能にするものです。例えば、モバイル端末の最も特徴的な機能は「持ち運べる」ということであり、持ち運んでいつでもどこでも使えるというハードの強みを活かすソフトがモバイル端末のユーザーが求めるものであると考えることができます。

モバイル端末が「モバイル」であることはソフト開発者でない限り、なかなか意識しないことかもしれません。ユーザー体験を規定しているソフトの視点からハードの特性を調べることで見えてくるものがあると思います。

ゲームをする人は、欲しいゲームソフトがあるからしょうがなくゲーム機を購入します。一部の物好きを除いて、ゲーム機が欲しくてしょうがなくゲームソフトを買う人はあまりいないでしょう。同様に、iPhoneを使いたいからしょうがなくLINEを使っているという人はあまりいません。催事場に行きたいからしょうがなく開催中の催しに出かけるという人もあまりいないと思います。

ソフトを使いたいからハードを使う動機が生まれ、そのハードでしか使えないソフトがあるから特定のハードを選ぶ理由が生まれます。そのソフトがそのハードの強みを十分に引き出すものならば、渾然一体となって新しい体験が生まれます。つまり、極論すれば、大事なのはソフトであってハードではありません2

盛岡の街に、小さな博物館を

私たちは、この”Content is king”な思考を小さな博物館という形で、盛岡の地に応用したいと思っています。これは盛岡の街というハードに、小さな博物館というソフトを用意すると言い換えることもできます。これにより、盛岡の街が持っている学習環境3としての強みを最大限に活かすことができると考えています。

遊ぶという行動は、自然界の野生動物にも見られるくらい自然でありふれた行動です。私たちの発達理論研究においても「遊び」がこどもの発達に欠かせない「ソフト」であることを自明の事実として扱っています。多様な体験が心を育てるという洞察の応用として、多種多様な遊びをコレクションし、利用可能にすることの意義は計り知れない価値がある、と私たちは考えています。

広報もりおかという盛岡の広報誌には、公共エデュテイメント施設の毎月の催し情報が一覧で載っています。「これはいい!我が子を連れて参加したい!」と思うアクティビティも多くあります。しかし、その多くが小学生以上を対象としたものであり、0-6歳幼児およびその子育て家庭の多種多様な遊びに触れる権利は考慮されていません4。吸収精神が最も発揮される時期5に、多種多様な遊び体験ができたら、どんなに心が育つことでしょうか。

多種多様な遊びを実現できる自然都市

盛岡のような自然都市は多種多様な遊びを実現できる最高の環境です。盛岡駅を中心として車で10分程度で豊かな自然にアクセスできます。15-30分程度ドライブすればより豊かな自然にアクセスでき、30-60分程度ドライブすれば原風景も待っています。

もちろん、盛岡は散歩するのにも最適な街です。東西南北に流れる川や、街を彩る並木、遠く聳える岩手山を見ながら道を歩けば、四季の移り変わりを感じ、それだけで心は満足します。マンションやビルだけが建ち並ぶ風景ではなく、鮭が遡上する川、熊が住める森、月夜の蛍が舞い踊る公園がある風景を次の世代にも引き継いでいきたいものです。

遊びの選定基準は発達理論に基づく

できる限り五感を使うもの、全身を使うもの、手先を使うものを中心に遊びをコレクションしたいと、私たちは考えています。それにより、例えば感覚の統合、身体動作の洗練、創造性の発揮が実現できます。遊びと発見は体験の表と裏です。遊ぶことで発見が得られ、発見が得られることで遊びが楽しく感じる。学習は遊びの別名であり、本質的に同じものである6と思います。

私たちの活動はすべて発達理論研究に基づいています。発達理論を基準にすることで、個人の経験だけを基にした場合と比べて、任意の体験活動の学習効果をより厳密に評価できると思います。例えば、岩手の公共施設のキッズルームにあるような「ままごとセット」のようなものはコレクションしません。私たちは、できる限り、①自然が与えてくれるもので、②こどもの知性に敬意を払うもので、③本物志向なもの、という方針で遊びを収集し、利用可能にしたいと考えています。例えば、ネイチャーゲームのアクティビティなどがこの方針に当てはまります。火起こしや野外調理、木を使った工作などもこの方針に合致します。

こどもと大人が一緒に遊ぶ場所に

こどもの遊びに興味のない大人たちも一緒に楽しめるものを多く取り揃えていきたいと考えています。法律や経済、政治の起源はこどものごっこ遊びにあるという説7もあります。その観点で見ると、どんな大人も日々ごっこ遊びに夢中になっている大きなこどもであり、遊び心は十分なほど持っているといえます。

遊びの博物館は遊び心を持つすべての人々のためにあります。遊びの博物館が盛岡という街にとって魅力的な新作ソフトとしてプレイされる日を夢見て、地道に計画を進めています。


Footnotes

  1. スーパーマリオブラザーズはファミコンの販売台数を大幅に増やし、ポケモンはゲームボーイの販売台数を大幅に増やした。このように、魅力的なキラーソフトの出現がハードの利用状況を大きく変化させることが知られている。

  2. 学校と学習の関係もハードとソフトの関係になっている。こどもたちは学習をするために学校に通っているはずだが、学校に通うためにしょうがなく学習しているというような奇妙な状況になりつつある。こどもたちにとって魅力的なソフトが提供されないため、学校というハードを使うためのモチベーションは部活や習い事、受験合格レースになっているかもしれない。それで満足な人は良いが、不満足な人たちの行き場はなく、6-18歳の大半の時間をただ耐えることに費やしてしまう。選挙権を持たない18歳以下のこどもたちの心の声は代議制民主主義社会には反映されない。

  3. 私たちは街という単位で学習環境を捉えている。学校の建物という単位は時代の要請によって人工的に規定されたものであり、自然発生した街という単位が学習環境として自然に定義されるスコープだと考えている。この考えを基に、私たちは建物ではなく街という単位で学習環境を整備していく。

  4. 安全上の理由とコストの問題が主な理由と推察していますが、0-6歳幼児にとって多少危険な遊び体験も健全な心身発達には欠かせません。例えば、火起こしや野外調理などの活動は幼児にとって物事の見方を180°転換させるくらい大きな体験です。大人にとっては取るに足らない活動かもしれませんが、幼少期の体験はずっと心に残るくらい大きなものです。このような現代化した家庭では体験困難なものは、恵まれた環境にいるこどもたちだけでなく、すべてのこどもたちの体験機会として整備されるべきと考えます。関係者の皆様におかれましては、何とか知恵を振り絞って、安全に低コストで体験できる機会を公共エデュテイメント施設で用意してほしいと思います。

  5. 吸収精神(The absorbent mind)は、マリア・モンテッソーリが幼児の発達研究で発見した幼児の特徴のひとつ。幼児期のこどもは、模倣する習性によって生育環境で起こるすべての出来事をスポンジのように丸ごと吸収する。「環境の健全さに配慮せよ」というモンテッソーリ教育理論の核となる概念。

  6. こどもたちは強制されて遊ぶのではなく、自発的に遊ぶ。自然界の野生動物が行うように、遊ぶことが自然と何かの練習になっているという創発的なやり方が動物本来の自然な学習スタイルである、と私たちは考えている。

  7. 「遊びは、人間の社会的・経済的・文化的な基盤である」という考え方。歴史家のヨハン・ホイジンガや社会学者のロジェ・カイヨワが論じる。