発見量の最大化
よく訊かれる質問に「そちらでは小学校卒業レベルの学力は身に付きますか?」というものがある。
この質問に答えるため、文科省の学習指導要領の達成目標と我々が設立予定のエレメンタリーの達成目標を一目で比較できるようにしたいと思い、学習指導要領のリサーチを行った。そこで、あることに気が付いた。それはカリキュラム設計が逆であるということ。その差分をトップダウンとボトムアップの違いと見ることもできるが、宇宙には上も下もないから、分化と統合の違い。「分かれていこうする方向」と「くっつけていこうとする方向」と言えばわかりやすい。
分化からはじまるシステム
現行教育のシステムは分化から始める。知的能力を国語・算数・理科・社会・図工・音楽・家庭・保健・体育などの「教科」に分化して捉えている。「教科」という言葉通り、科に分かれていく、つまり科学的な方向にある。
現行教育システムは、教えることが前提になっている。教科書を用いて誰でも教えられるように編み出された一連の方法論の集大成である。人間のこどもは知的生命体として不完全な存在であり、教えることで完全にしていかなければいけないという観念に基づいている。
このシステムは、中央集権的かつ画一的なモノカルチャーマニュアル1によって支えられている。だから文科省の学習指導要領に限らず、オルタナティブな新しい教育方法論であっても、中央集権的かつ画一的なモノカルチャーマニュアルによって支えられているシステムはこちらの系譜に属する2ことになる。たとえ宇宙的な教育内容を売りにする方法論であっても、システムの設計が分化的ならば不完全である。
百歩譲って、分化した先がすべて最終的に統合されるならよいと思うが、現在の学問の世界にそのようなポリマスを目指す気運はない。素人は専門家を目指し、専門家は超専門家を目指すのが現在の学問の潮流である。
統合からはじまるシステム
我々のエレメンタリーでは統合から始める。最も包括的なところから始め、体験多様性や関係多様性を増強する形で、なるべく包括性を失わないように、超自然的に過ごすことを心掛けている。自然に与えられた万能さをキープするという原則で知的生命を捉えている。だから自然の働きを損ねる一切の人為は許容されないと考えているし、人知によって余計なことはしないというポリシーを大事にしている。
このように根本的に目指す方向性が逆になっているから、冒頭の質問への回答は難しい。起点が異なるから12歳時点で行き着く地点も大きく異なる。だから、そもそもの比較ができない。
6-12歳のエレメンタリーの達成目標は、次の発達第三段階である12-18歳の「自然生活の時代3」の準備を終えていることである。それ は、言語や数の歴史を系統発生的に追体験することであったり、宇宙・地球・生命の歴史研究に没頭することであったり、シナジェティクス4によって手を思考道具として感覚的に全学問を探究していくことであったりする。このようなコズミック・スタディ(宇宙的探究活動)5をたっぷりと経験していることを意味する。
その結果として、自然科学の諸分野においては、ほとんどがエレメンタリー修了12歳時点で高校修了レベルをクリアすると思われる。人によっては大学修士レベル、あるいは学問分野創出レベルまで進むだろうと思う。これはまったく誇張ではない。それはどのように達成されるのか、ここで明らかにしたいと思う。このロジックが不完全ならば誇大広告の謗りを免れない。
発見量の最大化
エレメンタリーでは「発見量の最大化」をミッションにしている。この点においても既存教育のミッション「社会の要請に従い、社会に役立つ専門的人材を育成・供給する」とは大きく設計思想が異なる。
例えば、秀才が大学まで待たないと取り組むことを許されない地球物理学研究を、エレメンタリーでは6歳から取り組む自由が保証される。「ある分野に特化して発見や洞察を得ること」が「 学問をすること」だと定義するならば、最初に胚学問6ともいえる宇宙・地球・生命から始めるほうが圧倒的に効率がよい。
エレメンタリーのこどもたちは全方向性を有する包括性を保ったまま、既存の学問とは逆の方向で様々な発見と洞察をしていく。完全無欠な宇宙から、未成熟な文明社会に向かっていく過程で得られる発見と洞察は創発的に増えていく。宇宙からはじめることで、発見量は最大化される。
遠回りのルートを進むと遠い
一方、ある分野で不世出の天才研究者と言われる人々は、宇宙原理ではなく人間の社会的常識からスタートさせられるため、結局のところ大きく遠回りをしてしまっている。その遠回りのルートのために、高齢になって始めて成果を生むことになる。不完全な人間社会から完全無欠な宇宙社会に向かうルートを進めば、必ず遠回りすることになる。
知的研究の旅を専門分化から始めると、最先端に向かって極めれば極めるほどその道の限界に達する。自分の専門分野と他の専門分野の成果が相互矛盾することを無視できなくなってくる。この辻褄の合わなさを無視するタイプの研究者もいるが、偉大な研究者は何らかのブレークスルーを他分野との融合に求める。そこでようやく、複数分野の融合のためには、結局のと ころ、宇宙の仕組みの理解、つまり宇宙的視野の獲得が必要だと気づく。
宇宙の神秘の一部に触れることができた運の良い研究者が自分の研究を通して仲間に伝えることで、その分野全体に進歩をもたらす。人によっては何らかの賞を受賞したり、教科書に載ったり、歴史に名を残すこともある。偉大な研究者だと世界中から認められ、喝采を浴び、長年の研究の苦労が報われる。めでたしめでたし。
遠回りのルートを逆に進むと近い
いや、ちょっと待って欲しい。専門分化から始めて限界に達し、宇宙洞察を得る機会に恵まれ、その洞察に基づく自分の専門分野全体の系統的レビューを経た結果、理論の融合がなされて、学問の進歩が生まれるというサイクルは、順序を逆にしたらもっと短縮できるのではないか?
研究者の革新的発見年齢の平均が60歳だとするならば、先に宇宙洞察を経てから専門分野への応用と研究を進めていくことで、発見の平均年齢は半分の30歳くらいになるのではないか?
専門分化からスタートする研究生活の前半は、ほとんどのエネルギーと時間が、専門分化した近眼的なものの見方が間違っているという自己理解のために充てられることになる。その後の内省と宇宙洞察を得るところから真の研究生活が始まるとすると、忘れ物に気づいて家に取りに帰る時間がなければ、目的地にはもっと早く辿り着けるは ずだし、目的地をもっと遠いところに設定することも可能になる。より包括的な大きくて難しい問題の解決に挑むことも可能になる。
人生の有限な時間は、未知の旅路を楽しむ時間に
人生の有限な時間の使い方として、忘れ物に気づいて取りに帰る時間はなるべく最小化して、未知の旅路を楽しむ時間こそ最大化したい。繰り返しになるが、エレメンタリーでは「発見量の最大化」をミッションとしているから、ミッションの成否は未知の旅路を楽しむ時間の最大化にかかっているともいえる。
というわけで、我々のエレメンタリーで既存教育の小学校卒業レベルの学力が身に付くかどうかはわからないが、逆に、既存教育の小学校ではエレメンタリー修了レベルの知的水準まで高めるのは絶対に不可能ということは断言できると思う。
私たちは既存のものを物差しにして考えることに慣れているから、何でもその延長で物事を捉えてしまうのも無理はない。私たち人類は、「宇宙的にどう在るべきか」を感覚的に知覚して、そこから逆算して答えを出す能力を生得的に宇宙から与えられているのに、その能力を退化させる分化的な教育システムで育てられたおかげで、そんな不自由な考え方を無意識にするようになってしまったのである。その悲しい事実こそがまさに、我々のエレメン タリーのような新しいモデルの必要性を証明しているといえるのではないか、と思う。
Footnotes
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単一栽培生育をするためのマニュアル。モノカルチャーとは単一栽培農業を意味する言葉。 ↩
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有機農法的な教育法は一見、合地球的に見えるが、「環境が有する生産性の消費量 > 環境が有する生産性の回復量」の構造は変わっていない。回復量よりも消費量が大きければその環境は最終的に持続不可能になる。例えば、自然環境においては生態系の破壊につながり、砂漠化や磯焼けなど生命の過疎化につながる。教育環境においては、精神的な食べ物が枯渇した「砂漠のように退屈でつまらない」環境の出現が予想される。最終的に、知的生命の過疎化、すなわち知的生命の集合としての人類の絶滅につながる。 ↩
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マリア・モンテッソーリの発達理論における「大地の時代」と呼ばれる思春期の時代に相当する。ポリマスリサーチでは独自の発達理論研究に基づき、各地域の歴史や風土を考慮し、より広義に「自然生活の時代」としている。(e.g. 遊牧の文化を有する地域では遊牧を中心に狩猟採集し、農耕は しない) ↩
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バックミンスター・フラーが創始した宇宙構造を扱う学問。宇宙の現象を協働する多頂点体の動きと捉え、経験から物理法則を探究していく。 ↩
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「コズミック・スタディ(宇宙的探究活動)」とは、モンテッソーリ教育における「コズミック・エデュケーション(宇宙的教育)」を、ポリマスリサーチが独自に発展させたもの。物理学をはじめとするあらゆる学問の最新の知見を反映し、より正確に宇宙を探究して遊べるように随時アップデートしている。 ↩
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ポリマスリサーチ独自の概念。胚のような未分化状態の学問。 ↩