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昔話の鬼は熊

· 約11分
Yachiko Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ
Hiroki Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ

「たにし息子」という昔話がある。こどもが欲しい老夫婦が観音様にお願いすると、タニシを授かった。タニシとは田んぼによくいる巻貝であるが、授かり物だからと大切にタニシを育てる話である。タニシは馬の耳にささやいて、上手に馬を扱うことができた。そこで馬の荷運びの仕事をするようになる。いろいろあったが、最後は若い男の姿に戻って幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし、となる。

昔話は超自然的

「たにし息子」のように、昔話は自然との距離が非常に近い。昔話には、昔の人たちの自然に対する考え方がよく現れている。人間とタニシと馬が普通に会話をしているなど、全くもって超自然的である。

昔話にはその土地ごとの人々の物事の捉え方がよく反映されている。昔話は口伝だったから、お上が検閲することも取り締まることもできない最も軽く最も強いメディアだった。その意味では、政府の意向に関係なく継承されてきた人類の真の記憶といえる。

昔話は超自然的な文芸である。物語の文脈と人類の記憶という二重に時間を含む幾何学であり、言語におけるテンセグリティ構造でもある。語り手のエネルギーと聞き手のエネルギーによって、昔話というシステムは語られる前よりも強化される。昔話は自然発生したものだから、そういう宇宙的な構造を持つのは当然かもしれない。このように、人工的なのに自然物の性質を持つというのは個人的にとても面白く感じる。「こども」もそうだ。

言語能力は感覚的かつ運動的

言語能力は思考能力の構成要素のひとつである。感覚能力と運動能力を統合して言語を操れるようになる。五感のうち空気の振動を増幅して音として解釈する聴覚により聴くことが可能になり、声帯振動と喉・舌・唇・顎を含む口の動き、それに呼吸を精密にコントロールすることで以て話すこと、歌うことが可能になる。網膜における光刺激の受容を含む視覚と眼球運動によって読むことが可能になるし、それにプラス指・手・腕の精密な制御によって書くことが可能になる。この通り、ヒトの言語能力はAIのようにLLM(大規模言語データセット)のような膨大なデータセットを深く学習すれば習得できるようなものではない。

ヒトは現在のAIのように、統計的に帰納法で最も確率の高い「つづき」をつなげていくことで言語を構築しているわけではない。ChatGPTの書く文章は、語彙に乏しい小学生の作文のように、紋切り型の表現で構成された文になりがちだ。過去に書かれたものを統計的に処理して、確率的に最もらしさが最高になるように切って貼ってを繰り返しているだけだから、どこかで誰かが書いてそうなオリジナリティのない文章になる。

ヒトの言語能力は記号的で身体性を伴う

ヒトの言語能力はシンボリックなものである。シンボリックとは記号的ということであり、感覚や運動と紐づけたシンボル(記号)を演繹的に組み合わせて言語を構築していくということである。その意味で、ヒトの言語能力は感覚と運動が必要な身体性を伴う知的能力といえる。言葉の意味を理解するということは過去の五感体験と運動体験の解釈に依存している。意味を構築するときもその依存関係は変わらない。言語生成にとって動物に備わる二つの能力、感覚と運動は欠かせないものである。

AIであれヒトであれ、言語を記号的に操っていたとしても、それは意味を理解して言語を使っていることと同義ではない、と個人的に思う。最もらしさに最適化したAIの出現で、ヒトが有する「自然言語」の多様性の中には、機械的に定量化不可能な「生物的感覚と生物的運動の機微」が表現の豊かさとして海底火山のマグマのように潜んでいるようにみえる。

知性は流動的かつ刹那的

「感じる」と「動く」は動的であるから、言語は流動体のようなもの。だとすると、知性も流動体であり、絶えずアップデートが繰り返されているといえる。瞬間ごとに刹那的に覚えることと忘れることがたくさん発生している。

生成AIのように、学習する大規模データセットをさらに大規模にして学習し直し、推論モデルをアップデートしていくサイクルを定期的に回していくとして、これは果たして流動的なのだろうか? 脳は単一のアーキテクチャで、車の運転やスポーツなど瞬時の判断もすれば、料理のような感覚と段取りの総合的な判断、深い文章推敲などを限りなく省エネでやってのける。言語生成や画像処理など超専門分化したAIを統合できたとして、それは脳と同じくらい省エネで汎用的な能力を持ちうる見込みがあるのだろうか?

昨今のChatテクノロジーの向上は、道具として素晴らしく便利で上手く活用すれば実りも多いかもしれないが、本質的に知性とは別のものだと思う。個人的には、ルンバを発明したロドニー・ブルックスが研究しているような方向、感覚と運動の統合制御による振る舞い駆動のサブサンプション・アーキテクチャの方向のほうが自然で知的さを感じる。このボトムアップな設計は必然的に統合が省エネと能力拡張につながる。この設計のロボットには、虫や鳥に感じる自然の知的さを感じられる。人類が悪用しないことを願う。

昔話は言語構造を楽しむ娯楽

外国語のトレーニングをいくら積んでも人格は変化しない。会話のパターンをいくつ覚えようが、基本的に人格には影響しない。いつもと変わらない思考の順路を通るから、「ひ、ふ、み、よ」と数えようが、「ワン、ツー、スリー」と数えようが数は数えられると感じる。より「ネイティヴ」の真似をして「one, two, three」と発音しても感じ方は変わらない。生活環境ごと切り替えて日常のすべての言語パターンを変えてしまわない限り、会話フレーズをたくさん覚えても物事の見方が変わるところまではなかなか至らない。それは英語だけであろうと中国語であろうとアラビア語であろうと同じである。

しかし、会話のパターンではなく、言語の構造を捉えると途端に世界の見え方が変わってしまう。思考回路が組み換えられる。固定的なものの見方からの脱却に成功する。

使う言語によって、見ている世界が微妙に異なるということに気がつくと、言語はその土地に生える植物のようなものだと感じるようになる。植物のように土地に定着して生活の中で日常的に使われるもの。風土を反映しているもの。その土地に暮らして初めて気づく人が多いようだが、物事のパターンではなく構造に着目すれば、どんな場所にいても本当は発見できることだと思う。

言語自体の構造を考え始めると、メタ的な思考ができるようになる。言語で言語の構造を考えるというのは、再帰的な知的探索であるから、一つ上の次元から物事を捉えられるようになる。と言っても、それはそんなに難しいことではない。再帰的というのは「考えることを考える」というようなもので、いろんな昔話を聞いていれば、それで自然とできていることだから。昔話は言語構造を楽しむ娯楽ともいえる。

どんな言語も時間を含んだ構造をしている

基本的にはどんな言語も時間を含んでいる。時間とともに、幾何学的パターンが変化する。

「それは、植物の種から芽が出て折り畳まれた葉を広げるように。あるいは、根や茎や枝を伸ばしていくように。あるいは、花が開いては萎んでいくように。あるいは、やがて実がなり膨み赤くなっていくように。あるいは、熟した実が落ちて種が地面に着地するように」

例えば、こういう話し方をすれば聞いた人はその先も勝手に想像する。この一連の流れで、頭の中にイメージが浮かぶ。それで何を感じるかは人それぞれだが、何らかの観念は伝わる。

昔話は抽象的だから、お話が面白かったと感じるのは自分が想像したことが面白かったからだ。その上、昔話は素朴だから「どんな言語も時間を含んだ構造をしている」と自然に発見させてくれる。「あるところに、じさとばさがあった。それでこうなって、ああなって、そうなったんだけど、最後はこんなことになったんだよ」というような、誰でも理解できる論理展開をしてくれる。

昔話は土着の民族音楽

その展開は言語が持つ土着性によって、様々な変化を見せる。基本の流れは共通だが、強調する部分が異なる。リズムも異なる。ほとんど音楽の違いのように思えてくる。ちょっとした言い回しの違いが捉え方の違いにつながり、捉え方の違いが考え方の違いにつながり、考え方の違いが文化の違いにつながるというのは、バタフライエフェクトを目撃したようで面白く感じる。

昔話は使われている語彙も論理展開も明快でシンプルなのに、各国語に訳そうとすると非常に難しい。直訳してしまうのはかんたんだが、面白さが失われてしまう。昔話にとって面白さを失うことは情報を失うことに等しい。その逐語訳の取れなさこそが言語が持つ構造の違いを表していると思う。正四面体を正六面体に直接変換するのが無理なように、構造は翻訳できない。

昔話の鬼は熊

昔話は本当にあったことを面白おかしく誇張して話されてきたことが基になっている。「あそこの川に捨てられた赤ん坊がいて、そこにちょうど通りかかった人が流されてたその子を拾ってきて育てたんだって」というところから生まれた話もあれば、「あっちの村に、そこら中にいろんな種を蒔いて、一面に花を咲かせるのが好きな人がいたんだって」というところから生まれた話もあったはずで、多くの人を介して話されるうちに話の筋だけが残って継承されてきたものが昔話である。

浦島太郎のお話も、「困っている船乗りを助けたら、船でその人の故郷の家まで連れて行ってもらってお礼をしてもらった。帰ってきたらとても時間が経っていてびっくりしたんだよ」という人の後日談が基になっているのだろうと思う。このように、人々が実際に起きたことを基に話してきたことが昔話になっているという捉え方をしてみると、昔話は過去の事件簿であるといえる。というより、そうとしか思えない。

昔話の「鬼」は「熊」である。各自、昔話に登場する鬼を熊に置き換えてみてほしい。鬼と熊の特徴を比べてみてもいい。意外と「似ている」と思うのではないだろうか。そして、さらに意外なことは、「鬼=熊」と指摘する人の少なさである。なぜ指摘する人が少ないのだろうか? おそらく昔の人々や自然に近いところで暮らしている人々には普通に感じられる類似性だと思う。

こどもたちに本物の昔話を

出版社や作者の都合で改変されたファンタジー物語としての昔話が多く流通しているから、あるいは、自然から離れていってしまっているから? 鬼という存在に馴染みがなくなったのか、熊という存在に馴染みがなくなったのか。いずれにせよ、昔の人々が継承してきた本物の昔話を、本物の語り口で未来の人々に継承する必要がある。

語り継がれてきたものを次の世代にも語り継ぐための場として、ポリマスリサーチでは昔話博物館を作る予定です。日本の昔話はもちろん、世界の昔話を収集し、できる限り語り継がれてきたそのままの形で利用可能にすることを目標にプロジェクトを進めています。これからもずっと「めでたしめでたし」を続けていくためにも、「いや、鬼は熊じゃなくて…」とそれぞれの世界観を自由に話せる仲間を増やすためにも、こどもたちに本物の昔話を語る場が必要だと考えています。