昔話の鬼は熊
「たにし息子」という昔話がある。こどもが欲しい老夫婦が観音様にお願いすると、タニシを授かった。タニシとは田んぼによくいる巻貝であるが、授かり物だからと大切にタニシを育てる話である。タニシは馬の耳にささやいて、上手に馬を扱うことができた。そこで馬の荷運びの仕事をするようになる。いろいろあったが、最後は若い男の姿に戻って幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし、となる。
昔話は超自然的
「たにし息子」のように、昔話は自然との距離が非常に近い。昔話には、昔の人たちの自然に対する考え方がよく現れている。人間とタニシと馬が普通に会話をしているなど、全くもって超自然的である。
昔話にはその土地ごとの人々の物事の捉え方がよく反映されている。昔話は口伝だったから、お上が検閲することも取り締まることもできない最も軽く最も強いメディアだった。その意味では、政府の意向に関係なく継承されてきた人類の真の記憶といえる。
昔話は超自然的な文芸である。物語の文脈と人類の記憶という二重に時間を含む幾何学であり、言語におけるテンセグリティ構造でもある。語り手のエネルギーと聞き手のエネルギーによって、昔話というシステムは語られる前よりも強化される。昔話は自然発生したものだから、そういう宇宙的な構造を持つのは当然かもしれない。このように、人工的なのに自然物の性質を持つというのは個人的にとても面白く感じる。「こども」もそうだ。
言語能力は感覚的かつ運動的
言語能力は思考能力の構成要素のひとつである。感覚能力と運動能力を統合して言語を操れるようになる。五感のうち空気の振動を増幅して音として解釈する聴覚により聴くことが可能になり、声帯振動と喉・舌・唇・顎を含む口の動き、それに呼吸を精密にコントロールすることで以て話すこと、歌うことが可能になる。網膜における光刺激の受容を含む視覚と眼球運動によって読むことが可能になるし、それにプラス指・手・腕の精密な制御によって書くことが可能になる。この通り、ヒトの言語能力はAIのようにLLM(大規模言語データセット)のような膨大なデータセットを深く学習すれば習得できるようなものではない。
ヒトは現在のAIのように、統計的に帰納法で最も確率の高い「つづき」をつなげていくことで言語を構築しているわけではない。ChatGPTの書く文章は、語彙に乏しい小学生の作文のように、紋切り型の表現で構成された文になりがちだ。過去に書かれたものを統計的に処理して、確率的に最もらしさが最高になるように切って貼ってを繰り返しているだけだから、どこかで誰かが書いてそうなオリジナリティのない文章になる。