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こどもの人権

· 約7分
Yachiko Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ
Hiroki Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ

こどもには選挙権がない。ほとんどの権利は大人から与えられたものである。日本では、こどもの人権はほとんど無視されている。

こどもの人権を侵害する権力

大人はこどもの人権を平気で無視する。学校は大人の権力が人権侵害をする最もわかりやすい場。わかりやすい例をいくつか挙げる。

学校の集団健診

学校の集団健診は、大人がこどもに対し、セクハラとパワハラを同時に行う場である。女子生徒に男性医師を充てることを正当化するのは人権侵害であり、時代にそぐわない。犯罪を未然に防ぐためにも絶対にやり方を改めなければいけない。こういうことを「おかしい」と思うことは正常な反応だから、新しい時代を担う人々は空気を読まずに、しつこく声をあげていくべきだと思う。

個別最適化(パーソナライズ)は教育内容だけでなく、環境すべてに適用されるべき原則。集団にすることでひとりひとりのこどもの人権が薄まるわけではないのだから、集団であることはハラスメントを正当化する理由にはならない。

授業

授業がデフォルトの活動である学校には、活動選択の自由がない。授業を受ける以外の活動を選択する自由がない。YouTubeでたくさんの動画の中からどの動画を見るかを選ぶような活動選択の意思は完全に無視されている。ほとんどのこどもたちにとって、授業は受けたくなくても、強制的に受講させられるものである。

その上、授業が行われる時間はずっと教室の自分の席に座り続けていなければいけない。固い机と固い椅子に縛り付けられ、身も心も固くなっていく。こどもの柔軟で健全な心身の発達は完全に阻害される。こどもの健全に発達する権利は守られていない。

授業中のこどもたちには、囚人かと思うくらい行動の自由がない。教師の許可なく立ち歩いたり、話したりしてはいけない。目に見えないオムツを履かされているかのように、生理的な現象である尿意も便意もすべて教師に許可を取らなければ解消できない。トイレに行くにも、保健室に行くにも、すべて教師の許可を必要とする。何らかの目的で、わざと行動の自由がない環境にして、それに慣れさせる訓練をしているのかと思うくらい、自由がない。

自由がないという状況が当たり前のようになってしまっている。行動の自由がない環境にいれば、思考の自由もなくなってくる。自分で自由に考えることはできなくなり、判断の根拠も他人(たいていは専門家)から与えられた情報に賛成か反対か。日本の義務教育で自由がない状況に慣れた人々は、勝手に設定されたフレームからはみ出すことは悪いことだと思わされて生きている。「Out-of-the-box Thinking」なんて夢のまた夢。そりゃ盗んだバイクで走り出す若者も出てくるよ、と思うくらい、ありとあらゆる自由がない。

あなたが「自由は権力によって与えられるもの」だと思い込んでいるなら、残念ながら完全に染まりきっている。自由は誰かの許可を必要とするものではない。

宿題

学校の自由を奪うポリシーは徹底している。その人権侵害は、学校から帰った後の家庭にまで及ぶ。義務を課して家にいる時間の中でも自由を奪おうとする。何をして過ごそうが自由なはずなのに。この文化が残業、つまり仕事を持ち帰って家でしてくるのが当たり前な社会を作り出している。

時代遅れの学校と教師のイメージ

ドラえもんに登場する学校と教師は、過去の象徴として描かれる。22世紀から来た猫型ロボットの登場で、こどもたちが自由に行動できる街と自由に使える空き地の重要性が増している。学校は時代遅れになっていて、教師はこどもたちの好奇心と探究心の邪魔になっている。早起きして遅刻しないように学校に行くことよりも、思い立ったときにタイムマシンでタイムスリップする世界のほうが何倍も発見できる。

未来の世界では、やりたいと思ったことを何でも実際にやってみることの重要さが際立つ。漫画の読者としても、アニメの視聴者としても、学校での退屈で単調な毎日を描かれるよりも、奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験だらけの毎日を私たちは期待している。自分たちも本当は、少年のび太のように、色々大変なことはありながらも発見の連続で充足される毎日を求めているのではないだろうか。

テストで点数を付けて一方的に評価することも、一方的に課した宿題をして来なかったこどもを廊下に立たせることも、どちらもこどもに対するハラスメントである。そこに同調してこどもをなかばペットのように扱う両親に対しても、「ひとり息子の将来を案じる気持ちはよくわかりますが、こどもが自分で育つ力を信じてみましょうよ」と、一言言いたくなる。「22世紀のテクノロジーも利用できるのですから、杞憂すぎますよ」とも。

こどもは自分の力で育つ

こどもは自分の力で育つ。こどもは大人の思う通りにはならない。大人の思う通りにはならないけれど、こどもはちゃんと育つ。困ったことがあっても、行く先々に助けてくれる人もたくさんいる。ドラえもんに限らず、人類が大切に受け継いできた多くの昔話もそのことを今に伝えている。

それをリアルにこどもの視点から描いているドラえもんの世界では、こどもの理解不足や人権無視に由来するトンチンカンな環境を22世紀のテクノロジーで解決している。技術革新によって、不自由な環境に置かれた不幸な少年に自由がもたらされる物語として捉えると、現代にも通ずる多くの洞察が得られると感じる。

精神的ハラスメントをなくそう

20世紀の学校風景は暴力が当たり前だった。21世紀になり体罰は犯罪になり、わかりやすい肉体的ハラスメントは減った。しかし、未だに精神的ハラスメントは当たり前のようにある。肉体的ハラスメントも完全になくなったとは言いがたい。

新世代と旧世代の最も顕著な違いは、ハラスメントを含む不条理に対する感度である。こどもは常に最新世代であり、こどもたちが最も社会の歪みを感じ取っている世代である。こどもたちはこの社会のだめなところを一番よく理解していて、どうして欲しいかというそれぞれの思いもちゃんとある。しかし、選挙権も被選挙権もないこどもたちの声は代議制民主主義社会には反映されない。

その思いはゲームやアニメの理想的な世界に表現されている。現実世界がどんどん不自由になっていくのと反比例して、仮想世界はどんどん自由になっていく。

こどもたちの理想を社会に反映させるために

例えば、学校に通いたくないこどもたちの声は、学校に通わせたい大人たちの声でかき消されてしまう。こどもたちの声を社会に反映するために、何ができるだろうか。公民の授業で模擬投票をさせて喜んでいる場合だろうか。代議制民主主義はこどもたちが参加できるようなインクルーシブなデザインになっているのだろうか。ヒトだけでなく、その地域に暮らす全ての生き物の意思を社会に反映させるにはどうしたらいいだろうか。

異常気象などの大きな問題が顕在化する前に、炭鉱のカナリアのように危険のシグナルを発してくれるものたちは大勢いる。最弱者に役割がある社会が本当に良い社会である。それは多様性によって恒常性が保たれた社会でもある。

自然に共存する多種多様な存在を常に気に掛けることが巡り巡って大きな問題の予防にもつながる。ポリマスリサーチはこどもの人権を守る活動を進めていく。こどもたちに対するすべてのハラスメントがなくなって欲しいと心から願う。