超自然生育理論
人間は発見することしかできない1。コップに半分の水が入っているのを見て、「あと半分しかない」と感じる人もいれば、「まだ半分もある」と感じる人もいるように、出来事の受け取り方はそのときの状況による。砂漠を歩いていて喉がカラカラの人には「あと半分しかない」と感じられるだろうし、アルハラ2を受けて一気飲みをさせられている人には「まだ半分もある」と感じられるかもしれない。
同じように、日々の生活の中で何かを知るたびに、「自分はどんどん賢くなっている」と感じる人もいれば、「自分はまだまだ何も知らないな〜」と感じる人もいるかもしれない。森羅万象の世界を水として、コップがあなたの心そのものだとしたら、知ることへの感じ方は変わるだろうか。ほんの小さな一雫をコップの底に溜めていくようなやり方でしか世界を知ることができないとしたら。「あれ? いま、コップの中に勝手に何か零れ落ちてきたけど、なにこれ?」と不思議がっているうちに、「いつの間にかなくなってる」と消えてしまったり、「今度はいっぱい降ってきて結構溜まったな〜」なんてことになったり。「匂いはしないぞ」「味はどう?」「触っても大丈夫かな?」と、感覚を使って確かめて、長期間何度も繰り返してようやく徐々にパターンらしきものを掴めてくる。
結局、コップの中の水が何を表しているのかについては誰も正解を知らないし、「これはこういうことかもよ」と想像する人がいるだけだ。その想像が当たっていれば、新しい雫が降ってきたときに「やっぱりな」ということになったり、「え、これ予想と全然違うじゃん」ということになったりするのである。その上、新しい雫を手に入れるのも、実は「も っと降れ」と祈るくらいしかできることはなく、新しい雫が手に入らないうちは、コップの中に残っている水を使って、もう一度パターンを見つけるゲームでもして待つしかないということになる。例えば、古代の暮らしのことは化石を見つけるまでは何もわからないし、地球外生命の好きな食べ物のことは他惑星に生命の痕跡を見つけるまでは何もわからない。
自然崇拝から真理の探究がはじまる
我々ポリマスリサーチの研究員は自然からのみ発見を得るというポリシーを持っている。人間界のどんなに偉い人が唱えることよりも、自然界の小さな花が気づかせてくれることを重視する。自然の美しさは、混沌の中の秩序であり、時間を含む幾何学パターンとして常に変化しながら、この世界の至るところに存在する。当然、自分たちもそのパターンの一部であり、宇宙とは自分を含む環境すべて3。そして自然=宇宙であり、それを感じられるかどうかは心の感受性次第であるように思う。知ることは感じることの半分も重要ではない4。
心は 宇宙のアンテナのようなもの。科学が発明されて以来、望遠鏡や顕微鏡を覗き込んで実際に見える極大世界や微小世界の探求が真理の探求と考えられるようになった。目に見えなかったものが見えるようになったり、聞こえなかったものが聞こえるようになったり、大昔に持って行けば、魔法使い、あるいは神と畏れられるであろう道具を私たち人類はたくさん持っている。
しかし、真理の探求は科学の独擅場ではない。科学が発明されるずっと前から、真理の探求は宗教の独擅場だった。狩猟採集民だった頃の私たち人類は自然生活を当たり前に送っていた。遡ると、ヒトは樹上生活をやめ、地上に立ち、二本の足で歩き始め、石で器や刃を作り始めた。知力と体力を付けて捕食される側から捕食する側に回った。火を使い始め、死者を埋葬するようになった。「ヒト」へ分化して数百万年経っても自然の働きは予測できないことが多かった。知性が発達するにつれて理解不能な自然の神秘に畏怖の念を感じるようになった。次第に自然崇拝を始め、「祈る」ようになった。この流れを汲むと、ヒトが行う真理の探求は誕生以来ずっと自然を神と捉える自然崇拝を基にした宗教的な意味を持つものだといえる。たとえ、科学の産物が神と見紛う技術を可能にするとしても、自然崇拝をせずに真理の探求をすることはできないのだ。
狩猟採集民だった頃も、農耕民や遊牧民だった頃も、占星術師だった頃も、哲学者だった頃も、科学者である今も、私たち人類は変わらず真理の探求を続けている。では、狩猟採集民だった頃に宗教が生まれる前はどうだったのだろうか…? 自然について考え始める前は真 理の探求をしていなかったのだろうか? ヒト以外の動物は真理の探求をするのだろうか? 植物は? 菌類は? ヒト以外のすべての生命体は真理を探求できるほど「賢くない」のだろうか? それとも、「賢い」ヒトだけが真理を探求しなければいけない理由、例えば真理が何かを知らなくて探求しなければいけなくなっているのだろうか? 本当は、生まれたときは知っているのに、それを忘れているだけだったり…。そんなことはあり得ないだろうか?
科学に自然の代わりは務まらない
宇宙の星々から意味を取り出す占星術と、意味を取り出さずに動きだけを見る天文学の関係のように、自然信仰と科学信仰の関係は私たち人類がいま考えていることを明らかにする。
自然信奉者には、科学は価値が低いもの。何でも自然が与えてくれるものに感謝して活用する。アンコントローラブルな問題は自然解決を待つ。「グローバル」な問題は「ローカル」な問題の集合であると捉えて、自分のできる範囲で善思善行を実践する。小さな行いの積み重ねで大きな問題も自然消滅すると思っている。中央権力による一発芸を嫌い、静かに自然と調和した生き方を模索する。強い権力を持つ科学信奉者に揶揄されながらも合自然的に生きようとしている。ジブリ作品を好む傾向がある。
一方、科学信奉者には、自然は価値が低いもの。何でも専門家 が努力して人工的に作り出すものでコントロールできると信じて疑わず、どんな問題も科学の力で解決可能と考える。「グローバル」な問題は実験室で通用することが確認された解決法の規模を「グローバル」にすれば解決できると思っている。分散処理ボトムアップではなく、中央権力集中トップダウンによる特効薬的な即効性のある一発解決を是とする。何をするにも何を言うにもエビデンスを求め、合科学的に生きようとしている。査読付きの一流誌「nature」に掲載された論文や引用数が多い論文を好む傾向がある。
「そんなことはない!」と怒る人もいるかもしれないが、科学が生み出す「解決法」はほとんどが意図せず自然に反するものばかりになってしまっている。短期的には解決したと思いきや、長期的には副作用で問題が悪化したというようなことが多い。自然界では逆に、短期的にはひどいことになったと思いきや、長期的には転じて福となったというようなことが多い。ヒトが手を加えて上手くいくことは、大抵ヒトがその前に余計なことをして問題を起こしているというケースが多い。
「科学のおかげで豊かな暮らしがあるんだぞ!」と怒る人もいるかもしれないが、科学の恩恵をまったく享受せずに暮らしている人々は地球上にいまも多く存在する。しかし、自然の恩恵を受けずに生活している人はひとりもいない。高度に発達した科学都市でどんなに人工的な快適空間に暮らしていても、自然が生み出す空気を吸っているし、自然が生み出す他の生命を取り込むことで生き長らえている。現代の科学ではそれらを完全に代替できない。未来の科学もおそらくできないと思う。科 学の功績は人間界では偉業かもしれないが、自然界では異形である。自然の立場から科学の働きを捉えると、そのように考えることもできる。
自然の働きを真に理解し、その働きを代替する方法を生み出そうとするのではなく、働きを活かす方向に知性は使うべきだと強く思う。そして地球規模の困難な問題に全人類が直面している今、知的生命体として自然から何を与えられているのか、よく点検すべきだと思う。自然から与えられたそれらを自然の意向に沿うように、過不足なく必要十分に活用できれば、私たち人類にとっても自然界にとっても偉業と呼べる大きな仕事を成し遂げることができるはずだ。
神秘を解き明かすのは科学ではなく心
現代では、自然現象の背後に潜む構造とパターンを科学で解明することが真理を探求する唯一の道とするような風潮がある。宇宙的に見れば、科学とは専門分化の道であり、特定の感覚の先鋭化である。わかりやすい例として、目。科学は、目に見えないものを扱うのが非常に苦手だ。目に見えない物の理のことはほとんど何もわかっていない。宇宙とか地球とか生命とか意識とか、目に見えないそういう神秘的な事柄について、科学は無力である。
一方、神秘的ではない事柄について科学は強力である。科学の本質は専門分化だから、身体機能を外部化するのが上手い。視覚能力 の拡張として、カメラを作って静止画像を記録したり、顕微鏡を作って微小世界を、望遠鏡を作って極大世界を観察できるようにしたり。発話能力の拡張として、手紙や本や電話やインターネットを作って、遠くの人や昔の人と意思疎通できるようにしたり。移動能力の拡張として、車を作って走り、船を作って泳ぎ、飛行機を作って飛ぶことを可能にしたり。ロケットを作って地球を飛び出し、宇宙を旅行するために使うのかと思いきや、地球上の遠くの仲間が住むところに盛大に唾を飛ばすために使ったり。
科学は身体機能を強化するためにある。科学の手にかかれば、どんな身体機能も強化することが可能だから、唾を飛ばす能力も拡張してしまうし、拳骨を落とす能力も拡張してしまう。巨大な唾、巨大な拳骨を使わないための巨大な自制心、巨大な倫理観を早く拡張してほしいと思う。本当に。ASAP で。
繰り返しになるが、科学は神秘を解き明かすことはできない。科学は神秘を解き明かすための道具を作るのに役立つのみ。神秘を解き明かすのは心である。しかし、心は外部化して拡張できない。心は意識によって動いており、意識は目に見えない超物理的なものである。小さすぎて見えないのか、大きすぎて見えないのか。はたまた形がないのか。それすらわからない。現在世界最高最先端の科学でも、心は外部化できない。