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超自然生育理論

· 約20分
Yachiko Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ
Hiroki Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ

人間は発見することしかできない1。コップに半分の水が入っているのを見て、「あと半分しかない」と感じる人もいれば、「まだ半分もある」と感じる人もいるように、出来事の受け取り方はそのときの状況による。砂漠を歩いていて喉がカラカラの人には「あと半分しかない」と感じられるだろうし、アルハラ2を受けて一気飲みをさせられている人には「まだ半分もある」と感じられるかもしれない。

同じように、日々の生活の中で何かを知るたびに、「自分はどんどん賢くなっている」と感じる人もいれば、「自分はまだまだ何も知らないな〜」と感じる人もいるかもしれない。森羅万象の世界を水として、コップがあなたの心そのものだとしたら、知ることへの感じ方は変わるだろうか。ほんの小さな一雫をコップの底に溜めていくようなやり方でしか世界を知ることができないとしたら。「あれ? いま、コップの中に勝手に何か零れ落ちてきたけど、なにこれ?」と不思議がっているうちに、「いつの間にかなくなってる」と消えてしまったり、「今度はいっぱい降ってきて結構溜まったな〜」なんてことになったり。「匂いはしないぞ」「味はどう?」「触っても大丈夫かな?」と、感覚を使って確かめて、長期間何度も繰り返してようやく徐々にパターンらしきものを掴めてくる。

結局、コップの中の水が何を表しているのかについては誰も正解を知らないし、「これはこういうことかもよ」と想像する人がいるだけだ。その想像が当たっていれば、新しい雫が降ってきたときに「やっぱりな」ということになったり、「え、これ予想と全然違うじゃん」ということになったりするのである。その上、新しい雫を手に入れるのも、実は「もっと降れ」と祈るくらいしかできることはなく、新しい雫が手に入らないうちは、コップの中に残っている水を使って、もう一度パターンを見つけるゲームでもして待つしかないということになる。例えば、古代の暮らしのことは化石を見つけるまでは何もわからないし、地球外生命の好きな食べ物のことは他惑星に生命の痕跡を見つけるまでは何もわからない。

コップの中の水

自然崇拝から真理の探究がはじまる

我々ポリマスリサーチの研究員は自然からのみ発見を得るというポリシーを持っている。人間界のどんなに偉い人が唱えることよりも、自然界の小さな花が気づかせてくれることを重視する。自然の美しさは、混沌の中の秩序であり、時間を含む幾何学パターンとして常に変化しながら、この世界の至るところに存在する。当然、自分たちもそのパターンの一部であり、宇宙とは自分を含む環境すべて3。そして自然=宇宙であり、それを感じられるかどうかは心の感受性次第であるように思う。知ることは感じることの半分も重要ではない4

心は宇宙のアンテナのようなもの。科学が発明されて以来、望遠鏡や顕微鏡を覗き込んで実際に見える極大世界や微小世界の探求が真理の探求と考えられるようになった。目に見えなかったものが見えるようになったり、聞こえなかったものが聞こえるようになったり、大昔に持って行けば、魔法使い、あるいは神と畏れられるであろう道具を私たち人類はたくさん持っている。

しかし、真理の探求は科学の独擅場ではない。科学が発明されるずっと前から、真理の探求は宗教の独擅場だった。狩猟採集民だった頃の私たち人類は自然生活を当たり前に送っていた。遡ると、ヒトは樹上生活をやめ、地上に立ち、二本の足で歩き始め、石で器や刃を作り始めた。知力と体力を付けて捕食される側から捕食する側に回った。火を使い始め、死者を埋葬するようになった。「ヒト」へ分化して数百万年経っても自然の働きは予測できないことが多かった。知性が発達するにつれて理解不能な自然の神秘に畏怖の念を感じるようになった。次第に自然崇拝を始め、「祈る」ようになった。この流れを汲むと、ヒトが行う真理の探求は誕生以来ずっと自然を神と捉える自然崇拝を基にした宗教的な意味を持つものだといえる。たとえ、科学の産物が神と見紛う技術を可能にするとしても、自然崇拝をせずに真理の探求をすることはできないのだ。

狩猟採集民だった頃も、農耕民や遊牧民だった頃も、占星術師だった頃も、哲学者だった頃も、科学者である今も、私たち人類は変わらず真理の探求を続けている。では、狩猟採集民だった頃に宗教が生まれる前はどうだったのだろうか…? 自然について考え始める前は真理の探求をしていなかったのだろうか? ヒト以外の動物は真理の探求をするのだろうか? 植物は? 菌類は? ヒト以外のすべての生命体は真理を探求できるほど「賢くない」のだろうか? それとも、「賢い」ヒトだけが真理を探求しなければいけない理由、例えば真理が何かを知らなくて探求しなければいけなくなっているのだろうか? 本当は、生まれたときは知っているのに、それを忘れているだけだったり…。そんなことはあり得ないだろうか?

科学に自然の代わりは務まらない

宇宙の星々から意味を取り出す占星術と、意味を取り出さずに動きだけを見る天文学の関係のように、自然信仰と科学信仰の関係は私たち人類がいま考えていることを明らかにする。

自然信奉者には、科学は価値が低いもの。何でも自然が与えてくれるものに感謝して活用する。アンコントローラブルな問題は自然解決を待つ。「グローバル」な問題は「ローカル」な問題の集合であると捉えて、自分のできる範囲で善思善行を実践する。小さな行いの積み重ねで大きな問題も自然消滅すると思っている。中央権力による一発芸を嫌い、静かに自然と調和した生き方を模索する。強い権力を持つ科学信奉者に揶揄されながらも合自然的に生きようとしている。ジブリ作品を好む傾向がある。

一方、科学信奉者には、自然は価値が低いもの。何でも専門家が努力して人工的に作り出すものでコントロールできると信じて疑わず、どんな問題も科学の力で解決可能と考える。「グローバル」な問題は実験室で通用することが確認された解決法の規模を「グローバル」にすれば解決できると思っている。分散処理ボトムアップではなく、中央権力集中トップダウンによる特効薬的な即効性のある一発解決を是とする。何をするにも何を言うにもエビデンスを求め、合科学的に生きようとしている。査読付きの一流誌「nature」に掲載された論文や引用数が多い論文を好む傾向がある。

「そんなことはない!」と怒る人もいるかもしれないが、科学が生み出す「解決法」はほとんどが意図せず自然に反するものばかりになってしまっている。短期的には解決したと思いきや、長期的には副作用で問題が悪化したというようなことが多い。自然界では逆に、短期的にはひどいことになったと思いきや、長期的には転じて福となったというようなことが多い。ヒトが手を加えて上手くいくことは、大抵ヒトがその前に余計なことをして問題を起こしているというケースが多い。

「科学のおかげで豊かな暮らしがあるんだぞ!」と怒る人もいるかもしれないが、科学の恩恵をまったく享受せずに暮らしている人々は地球上にいまも多く存在する。しかし、自然の恩恵を受けずに生活している人はひとりもいない。高度に発達した科学都市でどんなに人工的な快適空間に暮らしていても、自然が生み出す空気を吸っているし、自然が生み出す他の生命を取り込むことで生き長らえている。現代の科学ではそれらを完全に代替できない。未来の科学もおそらくできないと思う。科学の功績は人間界では偉業かもしれないが、自然界では異形である。自然の立場から科学の働きを捉えると、そのように考えることもできる。

自然の働きを真に理解し、その働きを代替する方法を生み出そうとするのではなく、働きを活かす方向に知性は使うべきだと強く思う。そして地球規模の困難な問題に全人類が直面している今、知的生命体として自然から何を与えられているのか、よく点検すべきだと思う。自然から与えられたそれらを自然の意向に沿うように、過不足なく必要十分に活用できれば、私たち人類にとっても自然界にとっても偉業と呼べる大きな仕事を成し遂げることができるはずだ。

神秘を解き明かすのは科学ではなく心

現代では、自然現象の背後に潜む構造とパターンを科学で解明することが真理を探求する唯一の道とするような風潮がある。宇宙的に見れば、科学とは専門分化の道であり、特定の感覚の先鋭化である。わかりやすい例として、目。科学は、目に見えないものを扱うのが非常に苦手だ。目に見えない物の理のことはほとんど何もわかっていない。宇宙とか地球とか生命とか意識とか、目に見えないそういう神秘的な事柄について、科学は無力である。

一方、神秘的ではない事柄について科学は強力である。科学の本質は専門分化だから、身体機能を外部化するのが上手い。視覚能力の拡張として、カメラを作って静止画像を記録したり、顕微鏡を作って微小世界を、望遠鏡を作って極大世界を観察できるようにしたり。発話能力の拡張として、手紙や本や電話やインターネットを作って、遠くの人や昔の人と意思疎通できるようにしたり。移動能力の拡張として、車を作って走り、船を作って泳ぎ、飛行機を作って飛ぶことを可能にしたり。ロケットを作って地球を飛び出し、宇宙を旅行するために使うのかと思いきや、地球上の遠くの仲間が住むところに盛大に唾を飛ばすために使ったり。

科学は身体機能を強化するためにある。科学の手にかかれば、どんな身体機能も強化することが可能だから、唾を飛ばす能力も拡張してしまうし、拳骨を落とす能力も拡張してしまう。巨大な唾、巨大な拳骨を使わないための巨大な自制心、巨大な倫理観を早く拡張してほしいと思う。本当に。ASAP で。

繰り返しになるが、科学は神秘を解き明かすことはできない。科学は神秘を解き明かすための道具を作るのに役立つのみ。神秘を解き明かすのは心である。しかし、心は外部化して拡張できない。心は意識によって動いており、意識は目に見えない超物理的なものである。小さすぎて見えないのか、大きすぎて見えないのか。はたまた形がないのか。それすらわからない。現在世界最高最先端の科学でも、心は外部化できない。

生命の完全性原理と多様性原理を生育に活かす理論

超自然生育理論は完全性維持理論が中心にある。完全性とは万能性であり、完全無欠な状態のことであり、初めから完全状態であるということを意味する。ヒトは、というよりも、すべての生物は、完全性を有して生まれてくる。我々は、これを生命の完全性原理と呼ぶ。この生育理論は大胆なことに、その完全状態に対して何もしないことを中心とする理論とする。「余計なことは一切何もするな!」というのが完全性維持理論の本質である。無の理論ともいえるかもしれない。余計なことはしない。つまり、ヒトに対する場合、「教育」はしないということである。「教育者」も不要である。ただ、ともに生活する仲間として多種多様な生命と触れる機会があればいい。生命の多様性は多ければ多いほどよい。我々は、これを生命の多様性原理と呼ぶ。教育はせず、ただ生命の援助をするのみ。教育科学者たちの貢献によってより教育的になってしまった有名な理論の創始者の宇宙的な精神を継承している。生命の完全性原理と生命の多様性原理はどちらも宇宙汎用的な原理であり、完全性維持理論も理論的には宇宙汎用的である。この生育理論はヒト以外の全生物に適用可能であるという宇宙的基準を満たしている。

生物は誰でも天の才を持って万能で生まれてくる。天の才とは天、つまり宇宙から与えられた役割であり、万能とはどんな環境にも適応できるということである。しかし、ヒトの場合、実際のところは、生まれてから徐々に完全さを失っていくことになる。ヒトの常識を身に付けてしまうことによって徐々に歪んでくる。ヒトが手を加えることで自然に与えられた形が歪んでしまう。宇宙から与えられた役割を忘れてしまい、限られた環境にしか適応できなくなってしまう。

そこで、その形を生まれたばかりの完全な形に回復するための手助けが必要になる。それは直接介入による方法ではなく、こども自身が自力で回復できるような環境を整えるという間接的な方法で行う。健全な土壌になればそこで育つ生物は自ずと健全に育っていく。これは比喩表現ではない。自然の一部であるヒトは属する生態系の健全さに大きく影響されている。生態系を回復することで自分の健全さを回復することになる。つまり、地球生態系の復元がこどもたちの生育環境を整備することである。しかし、自然に任せると時間がかかる。百年単位かもしれないし、一万年単位かもしれない。反自然的な行いの影響が強ければ一向に回復まで至らないままになる。回復に至らないどころか、このまま反自然的傾向を強めれば、絶滅までのカウントダウンは早まる一方である。その間にもこどもたちは年々過酷になっていく地球環境の中で育っていく。到底健全とは言えない土壌で。どんな生物も土から離れて生きていけるものはいない。海を汚して生きていけるものはいない。これはヒトだけでなく全生物のこどもたちに話を広げても成立する話である。

超自然生育とは宇宙の中でより多くの生命を躍動させること

超自然生育とは、自然状態への超自然的な遷移を指す。超自然的な遷移とは宇宙の意図を理解して自然遷移のベクトルをアシストするということである。宇宙は私たち人類に二択を迫っている。「このまま利己的に反自然的な振る舞いを続けるなら滅ぼして別の知的生命体の登場を待つが、利他的に合自然的に振る舞うならばその間は面倒を見てやる。さあどうする?」と、問うている。この問いが私たち人類に届いて多くの人々が知るところとなってから数千年間、私たち人類の中の利己的なベクトルと利他的なベクトルは互いに打ち消し合いながら、ここまで来た。そして、ここ百年くらいで利己的なベクトルが利他的なベクトルを圧倒するようになってしまった。

自然に対するヒトの汚濁作用は地球の自浄作用を上回りつつある。専門分化で強化した身体機能の使い方を根本的に間違えている。宇宙から与えられた知性は、いかに多くの生命を奪うかではなく、いかに多くの生命を躍動させるかを考えるために使うべきであるところ、発明されるテクノロジーはほぼ前者のためにもたらされる。後者のためのテクノロジーはほとんどない。だから砂漠は広がり続けるし、病人は増え続け、エネルギーと資源を巡る争いは激しくなっていく一方だ。

知性を多くの生命を躍動させるために使うこと。宇宙の働きを理解すれば、それは必然的なことである。多種多様な生命を生み出したのは自然=宇宙である。では、宇宙が多種多様な生命を生み出したのは、なぜか。

宇宙は一切の無駄を嫌う。多くの生命を奪うために多種多様な生命を生み出すのは無駄中の無駄。宇宙は絶対にそんな無駄なことはしない。とすると、宇宙はより多くの生命を生み出そうとしている。私たち人類のより多くの生命を奪うテクノロジーはどんな理由があろうとも反自然的であり、反宇宙的としか言いようがない。宇宙に逆らう行為ともいえる。

私たち人類の中にそのようなベクトルがあることは否定できない事実であるが、そのベクトルをより大きな反対のベクトルで打ち消し、合自然的、合宇宙的になる道はある。その反対のベクトルとは、より多くの生命を躍動させることであるが、いったいどうしたら実現できるのだろうか? 平和を祈るしかないのだろうか? この問題は時限爆弾になっていて、未来に先送りできない。放っておけば必ず爆発してしまう。私たち人類は、どうすればいいのだろうか?

超自然生育理論はあらゆるものに有効

より多くの生命を躍動させるおそらく唯一の方法。それは、地球の長い歴史の中で自然の働きで行われてきたように、自然多様性を増強していくこと。これは、生命の多様性原理と一致する。ヒトが育つということは、他のあらゆる生命が育つということである。あらゆる生命が育つということは地球が育つということである。地球が育つということは、宇宙が育つということである。

すべてはひとつ。古今東西あらゆる宗教が説く教えの中にあるこの真理は宇宙の万物を貫く法のひとつであると思う。超自然生育理論はヒトを含む全生物、惑星、宇宙の生育に有効であると考えることもできる。

どんなものにも存在する理由がある。宇宙は無駄を嫌う。宇宙に存在する以上、何らかの役割がある。そういう視点を持てば、自然多様性が増強することで自ずと自然生態系が拡張されていくことがわかると思う。生態系を拡張する方法はそのまま生態系を生み出す方法にも応用できる。つまり、反自然作用によって生態系がボロボロになってしまっているような砂漠地帯などでもこの方法は使える。すでに生態系のネットワークが構築され、地圏以外にも生命圏や気圏や水圏を有する惑星地球とは違ってだいぶ時間はかかるだろうけど、理論的には他惑星のテラフォーミングにも使える方法ともいえる。この生育理論は地球以外の全惑星に適用可能であるという宇宙的基準を満たしている。

宇宙を眺める人と犬

超自然生育は誰でもかんたんにできる

これからの私たち人類に求められるものは何だろうか? 人類学者の回答とはおそらく一致しない自信がある。私たち人類が宇宙の働きを理解しアシストするために、宇宙が求めるという基準で考えてみると色々ある。例えば、専門分化せずに万能を目指すこと。静的ではなく動的にイメージすること。細分化して還元せずにホリスティックに捉えること。反自然的ではなく超自然的な仕事をすること。利己的ではなく利他的な本性を発揮すること。

大人になるまでに生まれ持った万能性を失わず、全人格が発達していれば自然と達成されることである、と思う。環境に恵まれず万能性を失ってしまった人たちでも回復する方法はある。それは多種多様なより多くの生命と日常的に触れるように努めること。土や植物に触れ、自然とのつながりを回復することで、地球上での役割を自ら発見できるはず。

最後に、ここまでの話がよく理解できなかった人は、土と鉢を手に入れ、そこにできる限り多くの種類の植物の種を播いてみよう。土は軽石、赤土、黒土の順で重ねるといいけど、面倒なら赤土だけ、黒土だけでやってみてもいい。ただし肥料が入っている培養土は絶対 NG。液肥を使うのも NG。肥料も薬も与えずにただ水やりして観察してみるのが目的と考えよう。鉢は大きくて広めのものがいいけどベランダなどの屋外に置けるサイズなら何でもいい。鉢は必ず外に置くこと。植物は、タイム、セージ、オレガノ、ローズマリー、カモミール、ミントなど、生命力が強いハーブから始めるといいかもしれない。ハーブはいろんな使い方ができるから、気になったら調べてみると思いもよらない発見がある。あなたの悩みを解決する植物もあるかも。種の袋に書いてある説明書は完全に無視して OK。ここに好きな植物の種を足していくことで、あなたの鉢の多様性は増強されて生態系が拡張されていくことになる。もっと詳しく知りたい人は「シネコポータル」で検索してみよう。

多くの種を入手して播くこと、適度に水やりすること、毎日の変化を観察することの超自然性は自分の中にある万能性に気づくきっかけになる。毎日このような超自然的な仕事をしていれば、思考回路は自ずとホリスティックになるし、利他的にもなっていく。実は、このような生命への働きかけを「超自然生育」と名前を付けて呼んでいるだけで、やろうと思えば誰でもできるし、まったく難しいことではない。ただ、ヒトが誤って身に付けた常識を捨て、代わりに宇宙的な正しさをどこまでも優先させていくだけでいい。

宇宙で通用するかどうかだけを基準に

いままで多くの生育理論(ヒトの場合、教育理論)が登場し、あるものは広く受け入れられ、あるものは廃れて忘れ去られてきた。広く受け入れられているからといって宇宙的に正しいというわけではないし、逆に廃れて忘れ去られたからといって宇宙的に正しくないというわけでもない。宇宙的に正しい部分と正しくない部分で構成されているものもある。広く受け入れられているものもやがて陳腐化してしまうことになるが、それはヒトの常識による影響が強まるからである。

合宇宙的な生育過程を経て育つヒトはどれくらいいるだろうか? 現状、どれだけ多く見積もっても 1%以下、少なくとも 50%は超えないのではないだろうか。とすると、ヒトの常識は宇宙の非常識であるから、ヒトの常識による影響が強まっていくと次第に宇宙的に正しくない部分の構成比が高まっていくことになる。そういう理論は、短期的には有効そうに見えても、長期的には必ずメッキがはげる。現在の世界では、宇宙の常識はヒトの非常識でもあるから、そもそも宇宙的に正しいかどうかを気にし続けることは社会的に不利かもしれない。「価値観の違い」という便利な言葉もある。

ヒトの常識ではなく、宇宙で通用するかどうかだけを基準にした場合に残る原理原則だけが未来に継承すべきものである。そういう観点で生育理論(ヒトの場合、教育理論)を研究しているところは地球上にほとんどないと思われる。

私たちと同じ宇宙的基準で研究する人たちがもっと増えることを願って、これからも色々書いていく予定です。感想はコメントなどでお気軽に5


Footnotes

  1. バックミンスター・フラーの言葉。

  2. アルコール・ハラスメントの略。アルコールを使った嫌がらせのこと。

  3. バックミンスター・フラーの言葉。

  4. レイチェル・カーソンの言葉。

  5. この記事はインスタグラムの公式アカウントで投稿した連載エッセイをまとめたものです。ほぼ毎日新しい文章を投稿をしているので、ご興味があれば、ぜひごフォローください。