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長いスプーンしかない世界

· 約5分
Yachiko Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ
Hiroki Obara
共同代表 @ ポリマスリサーチ

娘が幼稚園で聞いてきた話をしてくれた。天国では皆、長いスプーンを使う、らしい。自分で食事を完遂するには不適切なほど長いスプーン。周りの人から食べさせてもらわなければ何も食べることができない世界のお話。

精神的な食事に使う言葉も同じだと思う。自己を利するために使うこともできるし、他を利するために使うこともできる。こうして思ったことを伝えて、それで他の誰かに気持ちを共有することは受信した人の状況によって受け取り方がバラバラだから、どういう結果につながるかはわからない。

共感して安心したり勇気づけられる人もいれば、攻撃されたと思って気分を害する人もいるかもしれない。それは受け取る側が持っている文脈に依存するから、どんな発信も一種の賭けのようなものでもある。キャッチボールが成立するかどうかはボールを投げてみなければわからない。

利己心を正当化することはできるか?

他を利することは自己を利することでもある。では、自己を利することは他を利することにつながっているのだろうか? その証明に成功すれば、利己心を正当化することもできる。利己心は利他心であるとも言えるだろうか? これを読んでいるあなたも少し考えてみてほしい。

これは個人的な思考実験に基づく結論だが、短いスプーンが有り余るほどある世界であれば成立するかもしれない。しかし、長いスプーンしかない世界であれば成立しない。長いスプーンしかない世界では利己的な振る舞いは食事にありつけないことを意味する。これは次のシミュレーション的な思考実験でわかる。

長いスプーンしかない世界

もし、あなたが利己的で長いスプーンで食事ができなくて困っているとする。親切な隣人が不憫に思って食べさせてくれた。あなたは自分だけが食べられれば満足なので他の人には食べさせない。その親切な隣人は別の親切な誰かから食べさせてもらう。とても親切な人なら多くの人たちに食べさせてあげるだろうけど、その分自分が食べられないことになる。

機会の平等さをもっと明確にするために、1回しか食べさせることができないというルールがあったら、食事のたびに利己的なあなたの代わりに、誰かひとりが食事にありつけないことになる。そして少しずつ食事の回数が少ない人が出てくる。親切な人の割合が多ければ、均等にひもじい思いをしようとするから、徐々に皆が痩せ細っていく。利己的な人は自分だけ食べられればいいから、あなただけは痩せ細らないまま。

それを続けていくと、やがて飢える人が生まれる。こうしてひとり、またひとりといなくなり、究極的には利己的な人たちだけが生き残る。しかし、長いスプーンしかない世界では、利他心のない利己的な人から食べさせてもらうことはできない。こうして利己的な人たちも全滅することになる。

短いスプーンもある世界

短いスプーンがあれば、利己的な人も自分で食事ができるから全滅しないかと思いきや、今度は短いスプーンを巡る争いが起きる。短いスプーンが利己的な人たちに行き渡るくらい十分にあればいいが、利己的な人たちはその利己心をさらに進化させて、ひとりで2本、3本と短いスプーンを余分に持とうとするだろうから、どこまでいっても奪い合いの争いは起きる。

その争いに勝ち残った利己的な人たちの間で、余分に持っている短いスプーンの「権利」を「法律」で守ったりし始めたりするかもしれない。利己的ゆえに「罪」や「罰」の力で利他的に振る舞える人たちもいるかもしれないが、とても利他的な人たちがいるように、とても利己的な人たちもいるので、遅かれ早かれ破滅することになる。

権利も法律も罪も罰も、長いスプーンを使えれば不要

ここから得られる洞察としては、権利も法律も罪も罰も、長いスプーンを使えれば要らない概念だということ。短期的には役に立っても、長期的には必ず役に立たなくなる。

どんな道具を使うにせよ、思いやりの心が大事。優しさによって社会的に解決できる問題こそが人類に与えられている本当の試練と捉えることもできるかもしれない。その問題を利己的に、対症療法的に解決しようとしてしまったら、最終的には絶滅してしまうことになる。根本的には、共に生かし合うこと、共生できるか否かなのだと思う。

美しさとして感じられるお話

このように少し深く考えてみると、長いスプーンの話は小さなこどもでも自然と利他的な世界の必要性がわかるお話になっている。それは言語に還元することが難しくても、美しさとして感じられるものであるように思う。

仏教でも『三尺三寸箸』という極楽と地獄に見学に出かけた男が見た箸の話が言い伝えられているから、これはどの宗教でも説かれている教えなのだろう。

娘はこういう話が大好きで、こういう美しい話を聞くと心が満たされて元気になるように見える。生命は心を有し、心は共鳴するもの。美しいお話は心を振動させる。