長いスプーンしかない世界
娘が幼稚園で聞いてきた話をしてくれた。天国では皆、長いスプーンを使う、らしい。自分で食事を完遂するには不適切なほど長いスプーン。周りの人から食べさせてもらわなければ何も食べることができない世界のお話。
精神的な食事に使う言葉も同じだと思う。自己を利するために使うこともできるし、他を利するために使うこともできる。こうして思ったことを伝えて、それで他の誰かに気持ちを共有することは受信した人の状況によって受け取り方がバラバラだから、どういう結果につながるかはわからない。
共感して安心したり勇気づけられる人もいれば、攻撃されたと思って気分を害する人もいるかもしれない。それは受け取る側が持っている文脈に依存するから、どんな発信も一種の賭けのようなものでもある。キャッチボールが成立するかどうかはボールを投げてみなければわからない。
利己心を正当化することはできるか?
他を利することは自己を利することでもある。では、自己を利することは他を利することにつながっているのだろうか? その証明に成功すれば、利己心を正当化することもできる。利己心は利他心であるとも言えるだろうか? これを読んでいるあなたも少し考えてみてほしい。
これは個人的な思考実験に基づく結論だが、短いスプーンが有り余るほどある世界であれば成立するかもしれない。しかし、長いスプーンしかない世界であれば成立しない。長いスプーンしかない世界では利己的な振る舞いは食事にありつけないことを意味する。これは次のシミュレーション的な思考実験でわかる。
長いスプーンしかない世界
もし、あなたが利己的で長いスプーンで食事ができなくて困っているとする。親切な隣人が不憫に思って食べさせてくれた。あなたは自分だけが食べられれば満足なので他の人には食べさせない。その親切な隣人は別の親切な誰かから食べさせてもらう。とても親切な人なら多くの人たちに食べさせてあげるだろうけど、その分自分が食べられないことになる。
機会の平等さをもっと明確にするために、1回しか食べさせることができないというルールがあったら、食事のたびに利己的なあなたの代わりに、誰かひとりが食事にありつけないことになる。そして少しずつ食事の回数が少ない人が出てくる。親切な人の割合が多ければ、均等にひもじい思いをしようとするから、徐々に皆が痩せ細っていく。利己的な人は自分だけ食べられればいいから、あなただけは痩せ細らないまま。
それを続けていくと、やがて飢える人が生まれる。こうしてひとり、またひとりといなくなり、究極的には利己的な人たちだけが生き残る。しかし、長いスプーンしかない世界では、利他心のない利己的な人から食べさせてもらうことはできない。こうして利己的な人たちも全滅することになる。